建築家になった訳

住宅の原風景

スケッチ「生家」

私は高知県の中部の太平洋に面した町、須崎市浦ノ内で生まれました。江戸時代に建てられた母の生家は、母屋を中心に納屋、蔵、風呂場、食事室などが、それぞれ独立して分棟し、それらで1つの住宅を構成しています。

まわりを山や田畑に囲まれ遠くに海が見えました。程良い距離感の建物の間に光と緑と風が入り込んで、春や夏休みに遊びに行くのがとても楽しみでした。私の住宅に対する原風景は、そこにあります。

生産性や工業化といった言葉とは無縁の人間らしい豊かな空間がそこにありました。

美術大学時代

スケッチ「学生時代」

その後、大阪や奈良で少年時代を過ごした後、画家を目指し東京の美術大学に進みました。

大学のアトリエで毎日遅くまで作品に没頭し、試行錯誤を繰り返し描いては消して、下宿で友人と芸術について議論をしていたのを覚えています。私はこの時代に空間や色彩について多くを学び、平面や立体で表現する力をつけました。とても楽しい学生時代でした。

住宅メーカー時代

スケッチ「会社員時代」

絵を続けたかったのですが、大学を卒業して、私は縁があって住宅メーカーに就職しました。もちろん建築のことも住宅のことも全くわかりませんでしたが、何故か設計に配属され、その後20年間ずっと設計一筋に勤めることとなりました。その間に、住宅の基本、住宅のプラン、法律のことや顧客の対応、プレゼンテーション力、チームワークについて多くを学びました。何より会社を通じて多くの人と出会う中で、「社会」というものを見ることが出来ました。

大型の住宅を専門に任され、かなり自由に設計させてもらえるようになった10年目の頃、設計の仕事に行き詰まりを感じるようになっていました。そんな時、上司から仕事の関係で、吉田五十八賞建築家の山本良介先生のアトリエに手伝いに行ってくれと言われました。

建築家がどのように仕事をしているのかその当時は全く分からず、そんな有名な建築家のアトリエに行って果たして自分が役に立てるのか不安で一杯でしたが、しかし全てが新鮮で、同じ住宅設計なのにまるで初めてのことのように思える事の連続でした。何より驚いたのは、その建築を創り上げていくまでの姿勢です。決して妥協せず、何度も図面を描いては消し、描いては消しの繰り返しの連続で、時間に追われてとにかく完成させること、先に進めようとしていた会社での自分の仕事と比べ、これが本当の「もの創り」なのだと実感させられました。

人生最高の夏

スケッチ「山本アトリエにて」

この「感覚」……この何度も描いては消し、又新たに描く、そしてまた消して納得いくまで考え、描き、話し合う……。忘れていたこの感覚はあの大学のアトリエで来る日も来る日も繰り返していた、あの油絵を描いている感覚と同じなのだと記憶が蘇って来ました。

「そうか!建築とはこうやって考え、形に立ち上げていくのか。私にもこれなら続けられる!」

この日から私は全く別の人間に人間になったと言っても過言ではありません。私の作風はガラリと変わり、水を得た魚のように毎日が楽しくて仕方ありませんでした。ラジオからは毎日スピッツの歌が流れる、楽しい夏の日でした。

初めは「3週間ぐらいで返したるから」と言われていたのですが、結局半年間通い続けました。その間、様々な建築に対する考え方、取り組み方を山本先生に御指導いただき、お手伝いに行ったつもりが逆に人生が変わるくらいの勉強をさせてもらいました。

それは私にとって人生最高の夏でした。

その後、先生のご厚意でサラリーマンを続けながら、約10年間 毎水曜日会社の休みの日に先生のアトリエに通い続け、御指導を受けました。

45歳の時「独立するか?」の先生の一言で、建築家として独立する決心をしました。

独立

スケッチ「独立」

高知の自然溢れる土地に建つ古い民家のシステムが、私の住宅の原風景になり、大学で空間や物創りのプロポーション、色彩を学び、住宅メーカーで様々な人々と出会い、それを通して見た社会というものを通じて現在そして未来の住宅の可能性を考え、山本良介先生のアトリエで学んだ「発見の中で建築をつくりあげていく感動」それらが私の住宅建築を形作っています。

建築を通じて、ご自分のライフスタイルをより深め、高めていきたいと願っている人々の為に、私の建築がその人の土地に共鳴して、感動と快適さを生み出すことを願っております。