「美とは何か」
建築家 関谷昌人
「美」とは何か、という問いについて古来から多くの様々な芸術家や哲学者が解き明かそうとしていろいろな試みをしてきた。僕も大学では建築でなく油絵を専攻していて中学生くらいから頭を絞って考え続けていた。
「美」とは「ストレス」である。このことについては僕は絶対の自信がある。
僕は大学でこの問題をデータを取り上げて研究した訳でもないので、どうしてそう考えたか例をあげて解き明かそうと思う。
このことは師匠の山本良介先生の元にサラリーマン時代十年ほど通い続けていた時、突然頭に閃光が煌めいたように気がついたのだ。
数寄屋建築の話をしている時、あの複雑な意匠が何故私達が「美しい」と感じるのか。
畳のラインと柱、天井の桟がきっちりと整然と揃い、思わず「きれいですね。」と言った時に、逆にそれがずれていた時に感じる違和感。建築を見てよく言う「すっきり揃っているから美しい」は、実は正解ではない。どうして揃っていたら美しいと感じるかの答えにはなっていない。
私達は「美しい」とその感情の正体がわからないまま言っているのである。
私達は目でまわりや特定のものを見る時、それらが目を通して自動的に情報として脳に入ってくる。四角いものを見た時は、「目」というか脳のどこかでその輪郭をなぞり「認識」する。つまり情報処理を無意識にしている。これが散らかった机の上を見たらどうだろう。不快に思う人が多いはずだ。何が違うか、これは無意識に行っている情報処理と認知に脳の中で時間がかかりすぎることで脳にストレスがかかった状態であり、逆にものを知覚した時、この情報処理がスムーズに出来る状態の対象は、ストレスが無い。このときのストレスから開放される感覚、これこそが、人が「美しい」と呼んでいる感情に違いないと思った。
それでは少し具体的に誰もが日常の中で行っている生活の切口で説明しよう。
あなたが街を歩いている時、車や人々が行きかい、ビルの看板や信号や雑多な周囲の環境をあなたの脳は、眼を通して入ってきたそれらの情景を無意識に目まぐるしく情報処理している。次から次に留まることなく知覚し続けて、ずっとストレスにさらされている。しかし例えば、その街の中から、あべのハルカスようなビルに上り、そのてっぺんから外を眺めた時、きっとあなたは言うだろう。「あー綺麗だ」
それは外の景色が空と陸だけに分かれ、あなたの脳は、その2つのファクターを認知するだけで済み、とめどない情報処理のストレスから開放されるからに他ならない。空と地面の2つだけをあなたの脳は認識する。星空を見上げた時も同じだ。黒い夜空と星の光の点だけになるから見上げた途端、あなたの脳はその間複雑な情報処理から開放される。
例えば縦格子のフェンスの一本が折れていたとしよう。それまで端から縦格子を順調に情報処理していたあなたの脳は、折れた格子のところで今までと違った知覚動作をして少し時間がかかった(おそらくはほんのコンマ数秒)そこであなたの脳はストレスを感じ、「美しくない」ので直そうとする。
それでは、これらの「美」の本質が僕の考え通り脳の情報処理スピードそのものとしてこれまでの様々な芸術作品の中でどうこなされているか紹介する。
芸術においては、ここで今まで僕の書いてきた生活の中の受動的な知覚情報処理ではなく、古今東西の芸術家達は、あるテクニックを使ってこれらの情報処理の時間を積極的に縮めている。その一つが、「対比の理論」である。出江寛先生がよくおっしゃっていた「二元対比」がまさにそれだが「対比的=だから美しい」ではなくて、「対比的=情報処理時間の短縮」と言い換えることが出来る。基本はそうだが、2つの或いはそれらが複雑に相反するファクターを組み合わせてより速く人の脳にその状況を認識させるテクニックを多くのすぐれた芸術作品に見ることが出来る。
私達は美術館の中をゆっくりと歩いている。その際も絶え間なく目から入る人や建築内部の情報を無意識に知覚し処理している。そして名画の前に立ち止まる。例えばドラクロワの「民衆を率いる自由の女神」。少し離れて見ると旗を高く掲げ、画面のこちらに向かって走ってくる自由の女神とピストルをまっすぐ上に向けて今まさに打とうとしている少年の垂直なムーブマンに対し、死んで横たわっている人々の水平のムーブマンが対比的に構成されている。我々が構図と呼んでいるものは、この絵のフルサイズのフレームの中で垂直と水平の対比となって、まずあなたの脳はこの絵の全体を認識をする。
この一瞬は他の細かいところの知覚情報は行われない、しかしあなたはすぐに知覚のフレームを少し小さくし、もう少し狭い範囲を見る。例えば女神の上半身のところに目を移すとやや上方から前に突き出した国旗を持った女神の腕に対し、顔を後方へ向かって腕とは反対側へ振り返るように対比的に表現されている。この対比のため我々はこの部分を見た時も瞬時に情報処理が出来るのである。
そして振り返る動きを表現することで、画面こちら側のこの絵を見る人に向かって走って来る状況が圧倒的力強さで伝わり、瞬時に我々の脳に情報処理されるのである。このときも知覚認知のストレスが極限まで縮められている。(全体は旗を起点にし、死んだ人々を底辺とする三角構図として認識されるが、これはフランスの国旗で象徴される自由の国を多くの犠牲により支えていることを暗示したかったのだと考えている。がこれは私の言う「美」とは別の要素である。)
さらに見るフレームを小さくするとピストルをかかげている少年はピストルを持った右手をまっすぐ上に上げ、同じくピストルを持った左手は下向き後方に向けられ、対比的な少年の動きが一瞬で認識出来る。そして全体の三角形の一辺を構成しているのである。
更に別のフレームでこれに目を移し、この絵の他の部分を見ている瞬間は絵全体はあなたの知覚情報処理の対象の外にある。正面左端のサーベルを持った手のうごきと、腰に突っ込んだピストルの握りの向きやカバンの肩掛けの動きが対比的に描かれていて男の様子がスムーズに認識出来るようになっている。このように天才は、まず全体の対比的な知覚と認知のしかけを用意し、我々がこの絵を見るため少しずつフレームを小さくしていっても、或いは左右にずらしても、どの部分を見ても対比的に人が認識する速度を速くするしかけがしてあり、それらは連続的にかつフラクタルにこの複雑な画面の中に驚異的な緻密さで構成されている。
情報処理のストレスからの開放、それが美しいという感情なのである。
人は名画の前に立つ時、ひととき情報処理のストレスから開放されるのである。(この場合その絵の持つ物語性や意味のようなものから来る感情とは全く別のものである)
芸術に応用されて来た対比のテクニックの例をあげてみたが、それらは彫刻、工芸、ダンス、歌舞伎、ありとあらゆる芸術に見ることが出来る。結果的に芸術家達の「美」を求めるたゆまない努力は、これら全ての人の知覚から認識までの機械的な脳の情報処理時間をいかに短くするかということに知らずに全力を注いでいることだったのである。
最後に身近なところで、それらを検証してみよう。例えば、あなたには好きな色があるだろう。
それは様々な波長の中で、最もあなたの目と脳が速く認識出来る波長の色だと考えられる。これは民族によってかなり偏りがあることでわかる。ミクロネシアやトンガやサモアの人々が極めて彩度の高いかナチュラルな麻や枯草の色を好むことや、また北欧の人々が緑や水色のみずみずしい色をアートに取り入れるのもその環境が長い間に彼らの脳の情報処理機能の特性を作り上げ、それらの色が生存の為に、最も速く認識出来るようになったと考えられる。日本人が比較的彩度の低い色を好む傾向にあることも、環境によって脳が早く認識出来る色が民族によって異なって作り出されている事が推測出来る。年齢によって好みが変わるのも脳と目の構造が加齢によって変わるからである。
それでは何もない壁が一番美しいのではないかと言う人もいるかもしれないが、オートフォーカスでデジタルカメラが壁を捉えている時、なかなかピントが合わずシャッターが切れないという経験をしたことがないだろうか。私達はただの壁を見た時、それとよく似た状態になっている。そしてそんな壁を前に急に何もない壁に絵をかけたり何かを飾ってみたりする欲求にかられる、これは比較するものが現れることでより速く状況を認識することが出来るからで、壁だけを見た時、私達は意識ではそれが何かわかっていても目と脳の機械的な情報処理に手間取っているのである。絵を掛けたり何かを貼ることで脳の情報処理のストレスから開放され、それが「うんいいね」となるわけである。
この世界には絶対的な美などは全く存在しない。すべての美の答は私達の脳の構造にあるのだ。我々の脳の構造に素早く理解出来る形体、色、動き、美の本質は情報処理の早さであり、「ストレスが無い」ということである。私達の世界の様々な建築のデザイン、都市構造までも私達の脳の構造に都合よく出来ている。美しいものを苦労して追求して作っている様々な人の活動は、私達の脳の情報処理のスピードをあげるために他ならないのである。
JIA近畿支部 住宅部会『TALKABOUT 2019 No.54』
<2019年4月22日寄稿>